2016年06月13日

【人】歌まね芸能生活40周年の丸山おさむさん

■「歌マネ」に「歌謡史」加えた独自の芸風、文部省芸術祭で優秀賞

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 芸能生活40周年を向えた丸山おさむさん(写真)。歌手200人以上の『歌マネ』に加え、名曲に隠れたエピソードを交えての『歌謡史』で聞き手をなつかしい世界に引き入れて一気に盛り上げる、自ら築き上げた独特の芸風。1997年(平成9年)には、文化庁芸術祭の歌まねで史上初の優秀賞の大賞を手にした。

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 新潟県上越市の出身。子供の頃は引っ込み思案だったという。父と母の歌は聞いた記憶はないが、歌好きだった叔父がよく歌って聞かせてくれたのが耳に残っていたようだという。隠れた才能を開花させ、引っ込み思案を吹き飛ばすきっかけとなったのが、日立製作所家電品工場の試作検査部勤務時代の組合主催での年末の歌合戦だった。寮生活の先輩に背中を押されて舞台に上がった。初めて多くの人前に立つ緊張で誰のモモマネだったか、はっきり思い出せないほどだったが大ウケした。これに意を強くし笑いの道へ進む気持ちが強まった。

 「昭和51年(1975年)に、伊藤欄ちゃんに会えるとういう動機もあって、よし、という気持ちで(笑)、素人コンテスト公開番組に応募。芸能人野球大会実況中継のストーリーでピッチャーに森進一や解説に田中那衛といった芸能人を登場させモノマネでやったら優勝し、本格的に笑いの道へ入り、今年40年を迎えました」という。

■日立製作所勤務時代の忘年会でのモノマネがきっかけに

 テレビ、ラジオDJなどに多くの出演経験を持つが、活躍の中心は手作りの舞台での文化会館や小劇場などでのショーが中心。「思いのある人が贔屓(ひいき)にしてくれます。うれしいですね。必ずといってよいほど口コミで仲間の人を連れてきてくれます。テレビに比べると口コミのスピードは遅いが根強いファンの皆さんに支えられているという強さがあります。振り返ってみると、口コミの40年でしたね。これからも、ファンの皆さんと距離の近い関係を大切にしていきます」と微笑む。

 丸山さんからいただく案内は、パソコン文字のほかに、必ず、手書きの文字が添えられていますね、と聞くと。「作曲家の船村徹先生が曲を作られるときに作詞された元の原稿が欲しい、手書きの原稿にはそのときの気持ちが強く込められている、作曲にはその気持ちが大切、という話を聞いて、私も芸に心を込め、皆さんに心を込める思いで手書きにしています」と頬を引き締める。

 とくに、仮装や変装は一切なし、歌手の短所ではなく長所を真似る、しかも、歌マネだけでなく名曲に隠れたエピソードを交えての歌謡史が昭和の時代を生きてきた来場者の人生と重なって熱い感動を呼ぶ。『知的で品格のある芸風』として評される。

 磨き上げられた芸のヒントになった人として、丸山さんは、「白山雅一さん」、「桜井長一郎さん」、「林家木久扇」さんの3人をあげる。「白山雅一さんの声帯模写は同じ歌手をデビュー当時の声と晩年の声で歌い分ける、歌マネの真髄ですね。桜井長一郎さんは、歌は歌わないモノマネでしたが、間と構成がすばらしく、林家木久扇さんは昭和芸能史が得意でヒントをもらいまして歌に置き換えて昭和歌謡史としてやっております」。

 観察、分析、批評、応用をキーワードに多くの人と出会い、貪欲に芸に取り入れることを心がけている。企業の記念行事などで、歌謡史を企業の社史に当てはめて披露すれば喜ばれる。5年前からは、「寄席」にも出ているが、今後は、「最近はグローバル化時代で海外生活されている日本の方は多い、そういった海外現地の方に私の芸をお見せできればと思っています」と意気込みをみせている。

 丸山おさむさんの連絡先は、090−3208−0449。2016年〜17年に芸能生活40周年公演を順次行う。6月22日(水)には東京江東区の深川江戸資料館小劇場で開催する。(文=犬丸正寛)

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提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 12:43 | 人・ひと
2014年11月21日

【人】元NHKアナウンサー宮田修さん

■千葉県で宮司、モンゴルで日本語のアイウエオ先生

人・ひと NHKアナウンサー時代は、静かによく通る声と落ち着いた雰囲気で視聴者に安心感を与える、「もっともNHK人らしい人」といわれた宮田修さん。39年7カ月勤務したNHKを退職し、現在は千葉県長南町と長柄町の32社の神社の宮司を務めている。氏子さんは、およそ1200世帯。春と秋のお祭りを中心に神さまにご奉仕している。田植えなどの農作業で氏子さんたちが忙しくお祭りがない時に毎年、モンゴルを訪ね、ウランバートルの学校で中学生や高校生に日本語を教えている。日本語の基礎や発音、日本の文化、生活習慣などを教え、来年で10年になるという。さらに、年間、50回の全国講演もこなす超繁忙な日々を送っている。移り住んだ千葉県長南町の自宅におじゃました。

 ずいぶん広いですね。「最初はこんなに広くなかったのですが、続きの土地を買ってほしいと頼まれて引き受けたら1500坪にもなってしまいました。春から夏にかけて草がどんどん伸びます。草刈は大変ですが楽しいですよ」と微笑む。

 長南町からも近い千葉県富里市の生まれで国立埼玉大学教育学部の出身。「地元の小学校の先生になるつもりでしたが、教育実習に行って気の短い私には先生は向いていないと、きっぱり教師の道を諦め、NHKを受けたら採用され、旭川放送局を振り出しに39年7カ月お世話になりました」。

 この間、旭川―神戸―福島―岡山―広島―東京―大阪―東京―大阪―東京の放送局で一貫してニュースを担当してきた(厳密には最初の約10年はニュースのほかにスポーツも担当したという)。

宮田修 阪神淡路大震災のときの報道が強く印象に残っているし宮田さんらしさがもっとも発揮されたと思います。「地震発生は1995年1月17日、朝5時46分でしたね。5時49分05秒からカメラに向かい、午後1時まで一度も席を立つことなく報道しました。あの日1日で13時間あまりカメラの前にいました。もちろん、予定原稿はありませんから画面だけを見ながら自分ひとりですべてを判断し伝えることが求められました」。まさに、力量が問われた超ナマ放送だった。同時にこの報道でニュース報道の宮田さんという名を不動のものとした。

 しかし、心の中では、「この報道を担当したことでアナウンサーを辞めることができると思いました」という。ニュース報道アナウンサーとしてやり切った気持ちだったようである。

 なぜ、神主さんの道を選ばれましたか。「田舎で晴耕雨読の生活に憧れていましたからNHK時代に古民家を借りて週末などを過ごしていました。この古民家の大家さんが神主さんで後継者がいなかったため後を継いでほしいと懇請を受け、好きな田舎暮らしができて地域にも貢献できるならと引き受けました」。

 神主さんの資格はたいへん難しいと聞きますが。「古事記、日本書紀、万葉集などを読み、日本人の伝統的な考え方を学ばなくてはいけません。また、ご神前の作法や祝詞のつくり方などを学びます。難しいことばかりでした。しかし学べば学ぶほど我が国の良さ、日本人のすばらしさを改めて見直すことができました。平成14年春に資格を取り平成15年6月から宮司となって11年です。全国8万社あまりの神社によってつくられている神主本庁に加盟しています」。2〜3月は豊作を願っての祭り、秋は豊作に感謝する祭りで春と秋は忙しく、今は正月のお札つくりに追われているという。

 毎年、春の祭りのあとモンゴルの新モンゴル高校と付属の中学校で約1カ月、中学生から高校生までの生徒を対象に日本語、日本の生活風習などを教えている。交通費などすべて自費のボランティアである。「とくに、スタンダードの発音に重点を置いて教えているため、向こうではアイウエオ先生と呼ばれています」と笑う。

 向いていないと思っていた先生職も年輪を重ねて板についてきたということだろうか。教えた生徒の多くが日本の一流大学に留学、今続々と母国に帰り始めている。中には千葉大学を卒業、モンゴルの財務省に勤めている女性もいるという。「日本の大学を卒業してモンゴルに帰ってくる人が1000人になればモンゴルは変わってくると思います」と。日本とモンゴルがいっそう親密となることに期待している。

 NHK時代には、まったく手を触れなかったパソコンは今ではメールから出版の原稿もこなす。NHK時代とまったく変わらぬ健康ぶり。「好きな晩酌を片手に読書をして9時には床についています。空気もいいし健康そのもの生活です」と満足な表情だ。

 色づき始めた木々を眺めながら、「日本は今、日本人の和を尊ぶ心を見直す大切なところにきていると思います。先祖があって、いまのわれわれがあり、子孫に引き継いでいくのです。『中今を生きる』という考えを大切にしてほしいものです」。神職の表情が晩秋の夕映えに輝いて見えた。(文=犬丸正寛)

宮田修

提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 10:38 | 人・ひと
2014年06月01日

【人】赤塚耕一さん=赤塚グループ社長・国際ガーデンセンター協会副会長

■FFCテクノロジーで地球環境改善に挑む

人・ひと 物静かで温厚な中に強い信念が伝わってくる人である。父である創業者の、「絶対遂行」のDNAを強く受け継いでいるようだ。さらに、経営コンサルティングとしての経験が加わり武士とでもいうべき、冷静でどっしりとした迫力となっているのだろう。

 創業者の父は赤塚充良(あかつか・みつお)、現会長である。今から約53年前の1961年(昭和36年)に三重県で赤塚植物園を創業した。サツキや洋ラン、シャクナゲなどの栽培とその大衆化に取組み、今日では、「日本に園芸ブームを起こした男」、「日本の観葉植物、ガーデニングの仕掛け人」として知られている。

【人】赤塚耕一さん=赤塚グループ社長・国際ガーデンセンター協会副会長

 赤塚耕一社長が父を語る。「当時、日本で園芸といえば植木、盆栽が主流だった時代です。若き日にアメリカに渡った父は、アメリカの植物や花に囲まれた豊かな生活と、その豊かさを実現するためには、お祈りをしているだけでは何も始まらない、行動するしかない、と強く印象づけられた、と聞かされました。私にも、この父の思いは染み付いているとおもいます」、と表情を引き締める。
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提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 13:16 | 人・ひと
2014年03月11日

【人】村山貢司さん:気象予報士・経済評論家・山岳ツアーガイド

■気象予報と共に42年、「わかりやすくソフト」の語り口で定評、花粉研究の先駆者

人・ひと 分かりやすく、ソフトな語り口でお茶の間の根強い人気を持つ気象予報士の村山貢司さん、64歳。気象予報の仕事を始めて42年になるという。民放で10年、NHKで21年間、お天気キャスターを務めた。お馴染みの顔である。

村山貢司さん

 花粉症研究の先駆者でもあり、花粉飛散の時期ともなれば、全国から講演依頼が相次ぐ。さらに、気象と経済の関係にも研究領域を拡大、異常気象の今日と相まって全国を講演で飛び回る日々という。しかも、資格を持っている山岳ツァーガイドの仕事もこなしている。
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提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 12:46 | 人・ひと
2013年12月19日

【人】臼田依正さん:三木証券第二営業部のベテラン営業マン&全日本居合道連盟範士8段

■昭和最後の相場師・『ギューチャン』こと佐藤和三郎氏に師事し相場道極める

人・ひと すごい人である。82歳で証券外務員営業の第一線で活躍、しかも、全日本居合連道盟範士8段という腕前の持ち主である。

 まず、証券営業の腕前から紹介しよう──。

 臼田さん、ネットも自在に扱われていますか。「いいえ、私はネットをいっさい使いません。情報収集は、もっぱら紙の資料と電話中心です。別に不自由はありません」。

臼田 それで、よく営業ができるものだと思われるが、しかし、三木証券で70数名の外務員営業社員の中で成績は常にトップクラスの凄腕というからすごい。実は、それには深い理由(わけ)がある。その前に外務員営業について少し触れておきたい。外務員営業とは歩合外務員ともいう。長く大切にしている自分の顧客から株売買の注文取次ぎを行う。証券会社との間では正社員ではなく手数料収入の何割かを受け取るという契約社員の形となっている。顧客との厚い信頼関係と、しっかりした相場観がなくては成り立たない仕事である。

 なぜ、相場に強いのだろうか。「そうですね、獅子文六の小説『大番』の主人公となった佐藤和三郎氏に師事したことが大きいと思います」という。佐藤和三郎氏は、昭和時代最後の相場師といわれ、常に強気姿勢を貫くことから『ギューチャン』(牛ちゃん)と呼ばれたという。合同証券を設立し、臼田氏も合同証券に勤務した。臼田氏に、もっと詳しく相場道を尋ねたいところだが、話を向けてもにっこりされるだけで多くは語ってもらえない。

■居合道に加え英語も堪能の82歳、90歳までは現役貫く

臼田

 ただ、「株の基本は長期投資と思っています。日本は資本主義の国です。それに、安倍政権は長期政権が期待できそうですから、もっと多くの人が株式投資に参加してもらいたいものです。私は、これからも90歳を目標にがんばります」、とにこやかに微笑まれる。

 その微笑み、きりっとした振舞いは、居合道からきているようだ。「日本刀の鑑定をやったのがきっかけで居合いは26年やっています。無双直伝英信流の範士8段ですが、今度9段を受けたいと思っています」。背筋はすーっと伸び、肩の力は入れ過ぎでもなく抜き過ぎるでもない。昔の剣士はこうだったのだろうかと思う。

 「昔は、水に一晩浸したワラを真剣で切ったものです。もちろん、今は禁止されています。左上から右に切るのが、いちばんきれいに切れますが、真横に切るのがもっとも難しいですね。それに血ぶりという動作や居合いで刀を抜くと同時に鞘を引く動作も大切で難しいものです」。血ぶり、鞘の扱いを見せてもらった。流れるような動きに見とれてしまった。

 出身は群馬県藤岡市。「高崎商校を出てすぐに英語を身につけたい一心で先輩のいた強羅ホテルに就職しました。アメリカ軍に接収されていましたから将校などとの会話で英語は身につきました。強羅ホテルに近い強羅花壇の女将が佐藤和三郎さんの奥さんであったことから、佐藤和三郎さんを紹介され、ここで私の人生が決まりました。佐藤和三郎氏に師事し今日まで証券界で働かせてもらっています」という。

 言葉の端はしに飛び出す英語は流暢で、こちらも居合道並の腕前とお見受けした。相場の歴史を肌身で知る臼田氏にできるだけお会いさせていただいて学ばせていただきと思った次第である。(犬丸正寛)
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 12:31 | 人・ひと