2015年08月31日

【宮田修 アナウンサー神主のため息】日本人と米

■連作障害の出ない米のすばらしさが日本人の命を繋いできた

宮田修 アナウンサー神主のため息 秋は、収穫の季節です。田んぼの稲はいつの間にか穂を出し、順調に実っていきます。実るほど首を垂れる稲穂かな―まさにその通りです。日本人は、米を食べて命を繋いできた民族です。全国に8万社あると言われる神社は、多くの場合、その昔、米作りの共同体の中に神さまをお招きし、豊作を祈ったことを起源としています。米との結びつきが強いのです。

 日本人は、数千年前から米を作り始めました。これによって定住生活が可能になりました。一方、冷害などで米が収穫できないと餓死者を出してきたのです。そんなの昔の話で今の我われには関係ないという声が聞こえてきそうです。しかし、よく考えてください。つい100年ぐらい前までは餓死をする人がいました。死なないまでも米がとれないための悲劇はたくさんあったのです。何より今この国に生きている人たちはその当時、命を繋ぐことに成功した人たちの子孫です。ご先祖さまは米を食べて命を繋いでくれたのです。そのおかげで私たちは毎日楽しく、まあ時には辛いこともありますが、暮らすことができるのです。

 こんな話も聞きました。農家の友人の話です。さまざまな農産物を作付していて大きな悩みになっているのが、「連作障害」だそうです。同じ畑で次の年も同じ作物を作ると生産量が減ってしまいます。これを連作障害と呼んでいます。私も野菜づくりを楽しんでいますが、作付場所には配慮をしています。誠に厄介な連作障害ですが、日本人が主食にしてきた米には誠に有り難いことにこの障害が出ないのです。そう言われてみれば毎年毎年同じ田んぼに米を作っています。
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提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 10:10 | 宮田修 アナウンサー神主のため息
2015年08月01日

【宮田修 アナウンサー神主のため息】電車に乗ると座席7人のうち6人までがスマホ、電車の楽しみをもっと味あおう

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宮田修 アナウンサー神主のため息 田舎暮らしがすっかり気に入って都会に出ることはほとんどありません。いつも広い庭を一人で歩いているので人をかき分けるように歩かなくてはならない都会が苦手なのです。しかし、どうしても行かなくてはならない時もあります。仕方なく電車に乗ります。その時、ビックリすることがあります。

 JRの電車は7人掛けの椅子になっています。その向かいに座り何気なく前を見ると何とほとんどの人がスマートフォンや携帯電話を覗いているのです。先日は7人のうち6人がそうしていました。一心不乱に覗き込んでいます。自分の世界に入り込んでいるのです。

 こんなことを言うと私に対する批判の声が聞こえてきそうです。電車に乗っているときに何をするのかはその人の自由でしょうと。おっしゃる通りです。自由です。しかし7人のうち6人のまでの人が同じことを同時にしているなんておかしいと感じてしまうのです。携帯やスマホの他に何かすることはないのですかと少し意地悪に言いたくなってしまうのです。
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提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 06:00 | 宮田修 アナウンサー神主のため息
2015年07月01日

【宮田修 アナウンサー神主のため息】曲がった張り紙に思う

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■日本人の合理的ではない考え方を是非大事にしてほしい

宮田修 アナウンサー神主のため息 公共の施設などを訪れると壁に張り紙があります。特に最近この張り紙が微妙に曲がっていることが多いと感じるのですがいかがでしょうか。なんでそんなことが気になるのか、張り紙などそこに書かれていることがわかればそれで良いではないかと言われてしまいそうです。おっしゃる通りかもしれません。

 でも、私は少し大げさに申し上げればこの張り紙の曲りを放置しているところに日本人の最近の変化、いやそうではなく日本人の堕落を見てしまうのです。

 こんな経験があります。今から15年ぐらい前のことです。私は老神職から人助けですから後継者になってほしいと懇請を受け、神主になることを決意し、資格を取得するためある神社で実習をしていました。早朝、神社では神さまにお食事をお供えします。神饌と言います。三方(さんぼう)と呼ばれる台にお米やお酒、果物、野菜そして塩と水などを乗せ神さまの御食事として提供する。これが神饌です。
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提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 11:04 | 宮田修 アナウンサー神主のため息
2015年05月30日

【宮田修 アナウンサー神主のため息】男は優しいのが良いか?

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宮田修 アナウンサー神主のため息 まずは友人からの完全な受け売りをお話しよう。普段、体が丈夫なだけが取り柄だと大言壮語していた友人が何と入院を経験したのです。致命的な病気ではなく、10日ほどでめでたく退院し今はすっかり元気になっています。その入院中の彼の感想がとても面白かったのでご紹介しましょう。

 入院が決まった時、大変心細い気持ちになったそうです。これは誰でもそうでしょう。特に健康優良児にとってはかなり落ち込む出来事だったに違いないでしょう。そんな時、優しく見守ってくれる人というのは本当にありがたい存在です。それは看護師さんです。看護婦と言わなくなってどのくらいが経つでしょうか。「婦」が「師」に代わって大きな変化が起こりました。

 かつては女性ばかりであったものが最近は、男性の看護師さんも見かけるようになったのです。友人はそのことに疎かったせいか病室で当初は医師だと思っていたとのことでした。でも仕事ぶりからすぐに看護師であることがわかり、ごく自然に女性の看護師と比べるようになったというのです。そうすると何と男性の看護師の方が優しいのだというのです。

 もちろん個人差はありますが、女性の看護師はおしなべて実務的、てきぱきと業務をこなしていますが患者である友人には冷たい存在に映るというのです。これに比べて男性の看護師は、分りやすく言うと甘えさせてくれるというのです。この話に私は少なからず驚きました。
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提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 06:00 | 宮田修 アナウンサー神主のため息
2015年05月01日

【宮田修 アナウンサー神主のため息】衛星放送はテレビの良さの原点

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宮田修 アナウンサー神主のため息 久しぶりに何気なく新聞のテレビ欄に目を通した。そう言えば最近、新聞のテレビ欄はあまり読まなくなった。テレビのリモコンのスイッチの「番組表」を押せば番組が一目瞭然でわかるからである。録画も実に簡単。便利になった。いきなり横道に逸れたが、なぜ見ていたかといえば新聞のテレビ欄に使われている言葉が実に面白かったから。

 「120%興奮&超笑号泣&4時間SP」、「衝撃映像100連発」、「80人超の女子高校生生着替え」、「イケメンだらけの春祭り」、「禁断健康ランキングで大病リスクが判明」、「初密着の一日」、「土下座恥かかせてやるぜSP」、「裸と裸のぶつかり合い」これらはいずれもゴールデンタイムに放送されている民放の番組である。

 私がかつていたNHKも負けていない。「秋葉原の○○ホテル」、「金魚の街にある珍風景」などなど。番組製作者の気持ちが実によく表れている。何としても自分の作った番組を観てほしいのであろう。これでもかこれでもかと扇動的な言葉を使いPRをしている。涙ぐましい限りである。この言葉を信じて私もかつて何度か観たことがある。いずれも見事に期待はずれだった。特に興奮もしなかったしし号泣する場面もなかった。
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提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 16:37 | 宮田修 アナウンサー神主のため息
2015年04月01日

【宮田修 アナウンサー神主のため息】「ら」抜き言葉について思う

■日本の言葉は保守主義を貫いてほしい

宮田修 アナウンサー神主のため息 「見れる」、「考えれる」、「食べれる」いずれも最近よく耳にする日本語です。いわゆる「ら」抜き言葉です。以前は「見られる」、「考えられる」、「食べられる」と言っていました。「ら」がないから、「ら」抜き言葉と言います。この言い方が現在急速に拡がっていると言ってよいでしょう。

 「ら」抜きは正しい日本語ではない、きちんとした言い方に戻るべきだなどとNHKのアナウンサーのような言い方をするつもりはまったくありません。我われが日常的に使う言葉は時代によって変わっていくものですからそれで良いのです。言葉というものは自分の言いたいことが相手に伝わればそれで十分その機能を果たしているのです。確かに「ら」を発音しなくても言っていることは理解できます。それなら問題ないではないかと言われそうです。

 しかしそんなことはありません。やはり問題があります。ここは元NHKアナウンサーに戻って申し上げたい。テレビやラジオに出て日本語を使う人は是非この言い方を避けてほしいのです。なぜ、「ら」抜き言葉を使う人が出てくるのでしょうか。それは「ら」がない方が発音しやすいからでしょう。「見られる」より「見れる」の方が発音するときにストレスがないのです。

 発音してみればすぐにわかります。誰がそれを初めて発音したのかはわかりませんが、それを聞いた人が真似をします。発音するのが楽というのはとても魅力的なことなのです。そして楽な発音が少しずつ増えていきます。1対1で伝わりそして増加する分にはそれほど急速に拡がることはないでしょう。テレビやラジオでそれを耳にするとどうなるでしょうか。時として数千万人の人が同じ放送を聞いていることがあります。そしてその言い方の真似をします。

 お判りいただけるでしょう。テレビやラジオは影響力が非常に大きいのです。テレビやラジオで聞いた言い方は、瞬く間に拡がってしまいます。日本語が急速に変わってしまうことになるのです。私は、言葉は時代によって変わっていくものだと言いました。確かにそうなのですが、あまりに早く変わってしまうのは如何なものかと考えます。十分に時間をかけ、多くに人たちがその言い方が適切であるかどうか吟味されながら変わっていくべきものであると私は考えています。マスコミに席を置く人たちは、言葉に関しては保守主義者になってほしいのです。それもチョー保守主義者です。よろしくお願いします。(千葉県長南町の宮司、元NHKアナウンサー)
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 20:38 | 宮田修 アナウンサー神主のため息
2015年02月28日

【宮田修 アナウンサー神主のため息】日本人にとって水の役割を思う

■古来より清らかな自分に戻るために水の力を借りるのです

宮田修 アナウンサー神主のため息 駅のお手洗いに行くと、私は、アナウンサーの現役時代から必ずうがいをしていました。風邪をひきたくなかったからです。ガラガラ声でマイクに向かうわけにはいきません。引退しても悲しいかなその習慣は続いています。

 勢い普通の人より滞在時間が少し長くなります。周囲を横目で見ていて驚いたことがあります。用を足した後、手を洗わない人がいるのです。それも一人や二人ではありません。密かな観察によれば、10人のうち3人から4人は洗面所に寄ることなくトイレを後にしています。びっくりです。

 そこで私は考えました。手を洗わないというのはある意味、“合理的”かも知れないのではないかと。なぜなら我われ男性の場合、自分自身の肉体の一部にしか触れていません。それならば特に汚れることはないので特に手を洗浄する必要もないかも知れません。論理的には正しい。ではなぜ日本人は、お手洗いのあと手を洗うのでしょうか。

 50歳を過ぎて老神主の懇請を受け私は神主になりました。神主になるための勉強の中で初めてその、“なぜ”を知ったのです。古来日本人は、水には汚いものを洗い流す、“霊力”があると信じてきたのです。洗うことによって本来の清らかな自分を取り戻すことができると信じてきたのでした。

 神社には、“手水舎”があるのをご存知だと思います。お参りをする前に必ず手を洗い清め、口を漱ぎます。これこそが水の霊力を信じる行為なのです。我が国の神話にその由来がきちんと記されています。死者の世界を訪れたイザナギノミコトが穢れを祓い通常の自分に戻るために水に浸かり禊ぎをするのです。日本人は、清らかな状態が好きなのです。そこに戻るために水の力を借りているのです。

 1日中トイレの中にいなさいと言われたら誰でも厭です。しかし、生きている以上、1日に何度かは行かなくてはなりません。日本人は、“普通”の状態を好みます。普通に戻るためのいわば儀式が手を洗うということなのだと私は思います。

 お葬式に参列し家に帰った時は、塩でお清めをします。神社で御祈願をする際、白い房のようになったもの―大麻(おおぬさ)で左右左と神主にお祓いをしてもらいます。6月と12月の晦日(つごもり)―最後の日に神社では大祓式が行われます。こうしたことはすべて清らかな自分を取り戻すために行われるのです。

 人間は気をつけていないとその心の中に、“動物の野生”が芽生えてしまうのです。怖いことです。それを戒め神さまのお心に相応しい人間になるためにふと立ち止まって自分を振り返ることが求められるのです。

 余談になりますが、うがいをお勧めします。私は1日に5回から6回、多い時には10回以上うがいをします。アナウンサーをしていた39年間、おかげさまで自分の体調を理由にニュースの番組を1度も休んだことがありません。私の密かな自慢です。今振り返りうがいのおかげと感謝しています。(千葉県長男町の宮司、元NHKアナウンサー)
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 17:13 | 宮田修 アナウンサー神主のため息
2015年02月01日

【宮田修 アナウンサー神主のため息】『チョー』と『やばい』

■すべての場面で『チョー』ではいけない、日本語のさまざまな表現を楽しみながら使っていただきたい

宮田修 アナウンサー神主のため息 チョーとやばい、いずれも最近よく耳にする言葉である。若い人たちが使っていると思っていたら年配の人も愛用している。何と私の家内まで、『チョー美味しいね』などとのたまわっている。

 まさに、『チョービックリである』

 前の仕事がアナウンサーであったためだろう、周囲の人たちがどのような言葉を使っているか気になって仕方がない。日常使われる言葉は、時代によって変わっていくものである。したがって正しいそして美しい日本語を使ってくださいなどと偉そうなことを申し上げるつもりはない。

 『チョー』を使う人を非難しているわけでもない。私が問題だと思うのは、いかなる場合でも『チョー』で済ましてしまうことである。

 日本語にはたくさんの語彙がある。同じ意味のことを言うのにも多くの言い方を日本語は持っている。

 微妙にニュアンスの違う言葉があるのだ。『チョー』という言葉は『超』に由来している。何かを言いたいときその内容をはるかに超えているとき、例えば『超忙しい』と言うように使うのであろう。

 この言葉を最初に耳にしたとき、確かに新鮮な響きを感じた。『非常に』や、『とても』などそれまで同じ場面で使われていた言葉よりも強く訴えかけるニュアンスがある。説得力のある新しい表現であると思った。しかし、すべての場面で『チョー』ではいけない。『こよなく』、『いたく』、『この上ない』など、『チョー』と同じように使える言葉が日本語にはちゃんとあるのだ。それらもぜひ使ってほしいと思う。

 『私はあなたがチョー好きです』、と言われるよりも、『私はあなたをこよなくお慕い申し上げております』、と言われる方が重く受け止めるのである。日本語のさまざまな表現を楽しみながら使っていただきたいと前職がアナウンサーの神主は思ってしまうのである。

 一方、『やばい』は、いけません。この言葉も最近は若い人のみならず年齢の高い人も普通に使っている。古いと言われるのを覚悟で申し上げれば、私は絶対に使わない。若い美しい女性の口からこの言葉が発せられると私はがっかりしてしまうのだ。失礼ながらどのような躾を受けてきたのですかと伺いたくなるほどだ。

 やばい、とは不都合である、危険であるという意味だ。そして、もともとはある特定の集団それも反社会的な人たちの中で使われる『隠語』である。かつて一般の人たちは間違っても使わない言葉であった。それに私の耳には、『やばい』という3つの音の連なりは美しい音として届かない。むしろ耳障りな不快な音に感じる。テレビで頻繁にお目にかかるお笑いタレントさんがまるで専売特許のように、『やばい』を連発しているが、この言葉の由来をご存知ですかと伺いたいものだと思ってしまう。どのような言葉を使うか―それはその人の内面を実によく反映している。とても怖い事なのです。(宮田修 千葉県長南町の宮司、元NHKアナウンサー)
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 19:28 | 宮田修 アナウンサー神主のため息
2015年01月01日

【宮田修 アナウンサー神主のため息】飛ぶ鳥、跡を濁さず

■リクライニングシート対応にも現れる日本人の他人を思いやる心配り

宮田修の世相を斬る 新幹線や特急が停車駅に近づくと、使ったリクライニングシートを元に戻してくださいと言う車掌のアナウンスがある。お気づきだろうか。このようなアナウンスは、かつてはなかった。私の記憶では、4,5年前から始めたように思う。JRに訊いてみた。

 やはり座席が元通りになっていないことに乗客から苦情があるようだ。マナー改善のため車内アナウンスで促していると回答してきた。

 ではなぜ日本人は列車を降りるときに座席を元に戻すのであろうか。日本の気候は、高温多湿のところが多い。特に夏の間は、耐えられないほどである。かの兼好法師も『徒然草』の中で『家の作りやうは、夏をむねとすべすし。』と言っている。日本人は、耐え難い蒸し暑さの中で暮らしてきた。列車の話に戻ろう。空席を見つけ座ろうとする。その座席の背もたれが倒れていたら、それはそこに誰かが座っていたことを示す。暑い夏、その乗客は汗をかいていたであろう。座席にその湿りが残っているかもしれない。嫌な臭いも・・・。

 後から座る人は、おそらく気分が悪いに違いない。そこで席を立つ人は、自分の後にこの座席を使う人のことを考え、座席を元に戻すのだ。私はそう考えている。この島国に住む人たちは、常に自分以外の人のことに思いを馳せながら暮らしてきた。他の人たちが幸せになるために自分は何ができるだろうかと考えながら日々過ごしてきたのだ。自分が席に着いた時と同じように元に戻して席を立つ。ここには誰も座っていませんでしたよ。どうぞ気持ちよくお座りくださいというサインを送ることになるのだ。

 『飛ぶ鳥、後を濁さず』―日本人ならかつては常識であった。残念ながら今はそうではなくなった。私の密かな観察では、車内アナウンスがあるにも拘らず、およそ半数の人がそのまま下車している。その都度”日本人は変わってしまったな”と私は感じるのだ。間違えないでいただきたいのだが、私は席を元に戻すのが正しく、そうしないのを悪いとは言っていない。どちらでも良いかもしれない。特に最近は列車にはエアコンが効いて、かつての不快さは大分軽減されている。しかし他人のことを考えながら暮らすことまで忘れる必要はない。これは大切にすべきであろう。これこそが日本人の”美風”であると私は思うからだ。

 私は、老神職から懇請を受け50歳を過ぎてから神職になった。そして日本人の伝統的な考え方を学び、その素晴らしさに心を打たれた。同時に現在の我が国の状態がそれとはかけ離れていることに心を痛めている。

 このコーナーで私たち日本人のDNAに刻み込まれているであろう先人たちの考え方をお伝えしたいと考えている。(宮田修 千葉県長南町の宮司、元NHKアナウンサー)
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 08:30 | 宮田修 アナウンサー神主のため息